松風蘿月

ショウフウラゲツ

夢見草

 

 

かくすれば かくなるものと知りながら 

          やむにやまれぬ 大和魂

                 吉田松陰

 

 

 

何故このようなことになったのか、わからない。

 


二〇一六年春、網膜に映った夥しい桜花が、私の中の何かを砕いてしまったようだった。

 


旧松本村旧道に差し掛かると、遠目からは季節外れの雪が積もっているように見えた。旧道脇の桜は、満開だった。早朝の冷気を身にまとい、明け方の蒼い影を花弁に留め、月見川に向け重たげな花の房を差し出していた。

 


私はそれまで、桜を見たことがなかったような気がした。

 


満開の桜は、都市部では喧騒の只中にしか見ることができず、そうでなくとも桜という花は、この国では過剰な意味を付与されている。

いつかどこかで、初めて出会ったように、桜の花と対面してみたかった。本当は―どのような花なのだろうか、桜という花は―。

しかし、そうした思いも忘れかけていた。

 


明け方の人影のない時間帯に、桜の下を一人歩いてみた。

こんなふうに、桜を見てみたかった。

忘れかけていた思いが自然蘇るのを感じた。

 


特別に意識していたわけでもなかったが、萩の桜はその時正に満開だった。それもすれ違った旅客が、満開であることを傍らの人に告げているのを耳にし、それと知った。

 


萩城跡に着いた時には雨模様だったが、指月山を下山する頃には夕陽が照り輝いた。

西日が桜の花弁を射すくめ、花は紅に染まった。

私は何故か、俄かに胸苦しくなった。

周りの人影がなかったなら、きっと泣いていただろう。

 

 


萩に行くことを決めたきっかけは、大河ドラマ世界遺産登録によって、この場所がそれ以前とそれ以後で変わってしまうのだろうかと危惧したからだった。

しかし、起こりうる変化がどのようなものであるかを確かめようとし、居ても立っても居られないとまでに思い詰める自身の心境について、自分の知りうるだけの自分の過去に、答はなかった。

 

 

日本の環境は、私有財産尊重の民法によって個人がほしいままに切り取ることができる。しかし環境そのものの本質は、法を超えて思想としてあくまでも公的なものである。せめてその程度の思想でも持っていなければ、観光事業は今後、公賊になるのではないか。

           「街道をゆく」 司馬遼太郎

 

 


旅から戻り、世田谷の松陰神社に詣でた。萩で見たことの報告をするためだった。その頃関西方面からやってきた桜開花の波は、関東にまで到達していたようだった。先生の墓標は、満開の桜で彩られていた。儚げな薄紅の桜の色が、よく似合った。それまでは、高杉晋作が先生の墓所を楓の下にと選んだことを知り、楓の色づく頃が良いのだろうと思っていた。桜の時期に初めてこの地に赴き、この場所の一番良い時期は桜の頃なのだと思った。

 

 


その時、俄かに春の到来を肌に感じた。

春を、それまで特段意識したことはなかった。

それまでの私には、春は遠くあったからだ。

 

 

 

 

 

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しばらくの後、とある対談形式の催しに出掛けた。著名な俳優の名があり、以前から楽しみにしていた。実際楽しかった。対話は舞台音楽のようでもあり、曲の展開に沿って舞台を縦横無尽に動き回り、立ち位置や微細な振る舞いの全てが観客を意識しているようにも見えた。私は容易に魅せられ、引き込まれるようにし見ていた。私は文字通り、腹を抱えて笑っていた、笑い過ぎて涙が出た。しかしそこで、予期せぬことが起こった。

 


私は笑っていた。普段になく笑い転げていた。

しかし、他方で全く冷静な自分が自分を見ていた。

 


可笑しいな、と思う。

腹を抱えてしまうほどだ、と思う。

普段になく楽しんでいるから、手まで叩いて笑っているのだな、と思う。

 


表面上の私は、文字通り笑い転げていた。

本当に可笑しくて笑っているのだが、それを「本当に可笑しくて笑っているのだ」と注釈でもつけるかのように他方の私がつぶやいた。

 


これが乖離ということなのだろうか。

次第に気分が悪くなり、最後まで見届けることに苦痛を感じた。

 

 


その後、一般的に流布する多くの情報媒体に触れることに、違和感を覚えるようになった。

例えばSNSに載る文字は、過ぎ去って手の届かない画面の向こう側にいる人間の現在で、他者が目にする時には既に過去だった。抜け殻になった人間の残像を追い続けることができない。私が欲しいと思うのは現在だった。

 

 


ある日夜道を歩いていると、私は泣いていた。

山がない、と私は泣くのだった。

居住地に山がないわけではないが、遠方まで出掛けていかなければ見ることのできない環境にあるのは確かだ。

 


十代後半から転地を繰り返し、山というより空すらない都市に住んでいたこともあった。

幼い頃は故郷にある山の、なだらかな稜線に掛かる月に親しんだ。だからといって、山の在るなしを問題としたことなどなかった。

 


山が何なのかわからない。

 


だがはっきりしているのは、その「山」は「どこかの山」ではなく、ある地域の山並みを想ってのことだった。私はこの土地に住まうのはここまでと悟った。

 

 

 

何故このようなことになったのか、わからない。

 


複数の人間に、何故なのかと理由を聞かれた。

もっともらしい言葉を探すのだが、説明し尽すことができない。

これまでの居住地と、そこで培われた関係性を、捨てるように去ろうとしている自分は、何と恩知らずなのだろうという思いが胸を裂いた。


「寂しいよ」
と本当に寂しそうに言う人を前に、悔恨の思いしかなかった。


「・・・らしいね」
誰か別の人間を見て、その人らしいと言うことがある。しかしその言葉を自分に投げかけられた時、どのように受け止めたらいいのだろうと戸惑う。


その人らしい、と口にする時というのは、場面毎の振る舞いに、その人間の体内の音律のようなものを感じるということなのだろう。結果がどのようであっても、その結果はその人が導いたものであり、正否とは違うところからその存在を認める、或いは尊んでいる、例えばそのような気持ちから口にする言葉であるという気がする。


・・・らしい、という言葉を私に向けた人の気持ちはわからない。
伏し目がちに穏やかな笑いを口元に浮かべて言うその人の語調に、私は仄かな安らぎを感じていた。

 


職場にいる上司は厳しい人で、よく叱責を受けた。

他の人間よりも三歩、五歩先を見て行動し、指示は端的で、与えられた指示を即座に理解できないのであれば苛立ちを隠さない。初めは皆ついていけないと不平を漏らす。しかしその厳しさの由来を知るに及び、否定的な思いは払拭され、皆彼女を尊敬し慕った。


去り際に、私に向かい遠くから手を振る彼女を見て、私は思わず名を呼んだ。


駆けってきた彼女が私の腰にしがみつき、私は彼女を抱きしめて泣いた。


小柄な人で、触れると小さいこの肩が、これほどの大きな仕事を負っていたのだろうかと思うと、胸が詰まった。

 

 

 

何故このようなことになったのか、わからない。

 

こんな日が来るとは、思ってもいなかった。

 

 

 


あらかじめ一年の期間を経て準備していた転地は、こともなく済んだ。移動手段も経路も記憶には遠く、ほとんど無意識に行われていたかのようだった。


余りにも激しい変転の波に、意識が閉じてしまったのかもしれなかった。

 


焦がれていた萩に辿り着き、松陰神社に詣でた。

しかし静に手を合わせるだけにして、できるだけ直に何にも触れぬように、その場を離れた。私は茫漠としているように見えた。

 


その場所を、何の色にも染めたくはなかった。

 

 


そこで俄かに、何か言葉を耳にした気がした。

その言葉をここに記すことはできない。


その言葉をそのままここに記したとして、それが思い違いか、或いは妄想かの判別をする術がない。


しかしこうした言葉を感知する感覚を、本来人間は備えているのではないかという気がしている。

 

 

 

渓のひびき嶺に鳴く猿たえだえにただこの経をとくとこそきけ

                  道元

 

 

 

 


以前は限られた時間が去りゆくのを惜しむようにして、夕陽にシャッターを切り続けた。

いつでも来ることができる、そのような環境になったのなら、自分の行動も変わるのだろうと思っていた。しかし予想に反して、それは変わることはなかった。

その景色は、いつまでも見飽きることがなかった。

 

 

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冒頭に載せた句は、二〇一七年三月下旬、萩の松陰神社に詣でた際ひいたおみくじにあった。

一年ぶりに詣でた松陰神社の梅は散り、桜は蕾を固くしていた。


私は時々おみくじをひくが、吉か否か―ではなく、ただそこにある言葉を眺めてみる。時折思いがけない表現があり、それらを興味深く思う。

 

 


私は先生のやむにやまれぬ心情を、今も思い続けている。